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    <title>kazu3のブラブラ日記</title>
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    <modified>2012-05-17T06:35:05+09:00</modified>
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    <tagline>日記・寺巡り・読んだ本・孫についてなど</tagline>
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        <title>本棚整理１６７（「客船クルーズ」）</title>
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        <issued>2012-05-17T06:29:00+09:00</issued> 
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        <content type="html"> 
２００４年PHP研究所から発行されたもので、著者はトラベル愛好会となっている。丁度７年前２００５年１月にシンガポールから初めてのクルーズで、マレー半島とスマトラ島に挟まれたマッラッカ海峡に出かけたのだが、その年の前年１２月にスマトラ沖地震があり、寄港地も変更となったのだが、ペナンなど昔の面影の残る港町を訪ね、兄妹のご夫婦と一緒での大型客船の旅を楽しんだのだ。その参考として購入したのがこの本だ。こんな楽しい！　初心者のための手軽でお得な船旅入門書として、クルーズの楽しみ方を書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
船内の様子や寄港地での過ごし方、船内新聞の話や食事、イベントなどなどについて説明されていて、その後のクルーズ経験で会得した体験が、今思い出すと、結構細かく書かれていると思う。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
マッラッカ海峡クルーズは、スーパースター・ヴァーゴでの３泊４日の短い船旅であったが、その後、カスピ海クルーズ、アラスカ・クルーズと結構長期間のクルーズを経験し、地中海からカナリア諸島をめぐるクルーズに参加する予定でいたところ、出発のわずか１週間前に、突然の脳内出血で入院することとなり、キャンセルしたのは２年半前のことだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
昨年２月には、現役復帰のトライアルとして夫婦だけで、シンガポールから、ジャワ島、バリ島、ロンボック島を、赤道に沿っての航海をし、今年は２月にハワイ４島めぐりのクルーズに参加した。とにかく、朝日と夕日がいいですね。また、デッキ散歩も最高です。のんびりしていて、クルーズの旅は、年寄向きなのでしょう。&lt;br/&gt;
特に、何人かの気心のあったグループでの船旅は本当に、気楽で楽しいものです。７年間に５回もクルーズに出かけたことになり、贅沢に旅しているわけですが、さて、今後はどうしましょうか。思案中です。
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        <title>本棚整理１６６（「くらしの中の魚」石黒正吉著）</title>
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        <issued>2012-05-16T17:14:00+09:00</issued> 
        <modified>2012-05-16T17:19:45+09:00</modified> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
昭和53年毎日新聞社発行で、著者は、明治40年魚問屋に生まれ、府立一商を中退して家業を継ぎ、仲買業の大為商店の代表となる。今から35年も前、毎日新聞の連載ものを整理したものだ。面白そうな話を２，３拾ってみよう。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
カツオでは、「江戸の初カツオ」について、俳人宝井其角の句に、「まな板に　小判一枚　初カツオ」というのがあり、元禄から天明までの100年間が、カツオを賞味すること頂点に達す。と書いている。江戸のカツオは、鎌倉から送られてきたようで、「鎌倉の　海よりいでし　初カツオ」の句が有名だ。もちろん、「目に青葉　山ホトトギス　初カツオ」は素晴らしい俳句なのだが。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
マイワシでは、紫式部が隠れてイワシを食べていた話が有名で、夫がそれを見て、「むげに賎しきものを食べ給うかな」と、見咎めたのに、紫式部は、「日の本に　はやらせ給う岩清水　まいらぬ人は　あらじと思う」と、岩清水とイワシをかけた和歌を詠んでいる。このイワシは、恐らく若狭湾で冬に取れたイワシの一塩ものではないかと著者は書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
フグを河豚と書くのは、中国のフグは大河に生息し、ブタのように太って、ブーブーと泣くので「河豚」と書くのだそうだが、日本のフグは海に生息しているので「海豚」になるが、既に、「海豚」はイルカとなっていので、中国式に「河豚」と書くのだそうだ。中国でも2000年も前から、文献に「これを食すれば、往々にして死す」と記されているそうだが、日本でも貝塚からも大量のフグの骨が出てくるそうだが、古い文献には毒性について触れたものがないそうで、古代の日本人は魚の内臓を食べなかったのではないかとも言われているそうだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
秀吉は、朝鮮出兵の折、九州に集めた武士が、フグを食べて中毒死すものが多かったことから、フグ禁食令を出したそうで、これを解禁したのは、明治になって伊藤博文だそうだ。芭蕉の句に&lt;br/&gt;
「あらなんともなや　きのふは過ぎて　ふぐと汁」がある。最近、下関でふぐ料理を食べたのが思い出される。芸術品ですね。
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        <title>本棚整理１６５（「紀州魚歳時記」福井正二郎箸）</title>
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        <issued>2012-05-16T06:47:00+09:00</issued> 
        <modified>2012-05-16T06:53:07+09:00</modified> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
昭和５８年和歌山市にある「ゆのき書房」発行のもので、著者は大正元年生まれ、武蔵野美大を卒業し、地元新宮高校などに奉職、和歌山県産の魚類の標本図を手掛け、魚に造詣が深く日本魚類学会会員。第３回豊かな海づくり大会が、和歌山県串本の魚市場で行われることで、県庁といろいろ接触する中で、魚の絵が印象的なこの本が話題となり、私を含めて東京の関係者に寄贈されたものだ。丁度３０年前のことだが。内容がユニークで、面白かった記憶があるので、そのいくつかを紹介しよう。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
紀州といえば、サンマで、佐藤春夫が、「あわれ秋風よ。情けあらば伝えてよ。男あり、夕餉（げ）にひとりサンマをくらうと・・・」と人の世のわびしい秋をサンマにうたっている。この歌は、出身地新宮の駅前に掲げられており、紀州は、我が国サンマ発祥の地で、サンマ寿司が有名だ。この歌は、東京に出てきて、望郷の念に駆られて作られたものだそうだ。紀州では、サンマと言わずに、「さいら」「さいれ」というそうで、スラリとした優姿を思わせ、土地の人の口から出ると、とりわけ爽やかで美しいと著者は書いている。紀州の人たちは、脂を嫌い、品の良い地元の「さいら」を喜ぶという。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
紀州ではトビウオは、初夏の候に、ツバメが飛びあうようになると、海ではトビウオが飛ぶのがみられるようになり、ツバメが小さな子供にエサを運ぶ頃に、トビウオの子供は、イナゴかバッタのように船の行く先々で、にぎやかに飛び惑う姿に出会うことになるそうだ。思い出すのは、大分後の話だが、マグロの完全養殖に挑戦する串本の近畿大学の実験場で、クロマグロの稚魚を飼育しているイケスを見物したことがあるのだが、小さなマグロが一斉にジャンプする姿は、とてもかわいく、まるでトビウオのようであったことを思い出す。確かに、ｔビウオの無心に舞い飛び、遊ぶ姿は、幻想的だ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
鰹節をを初めて作ったのは、今から３００年前紀州の甚太郎という人で、それから土佐や駿河に伝えられたという。そもそもは、景行天皇が船で紀州沖を通る時に弓で海面をかき回してさかなをひっかけたのが、カツオ釣りの始まりとだそうで、日本書記にも出てくるというから面白い。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;

        </content>
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    <entry>
        <title>本棚整理164(「風流魚譚」佐藤魚水著)</title>
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        <issued>2012-05-15T21:25:00+09:00</issued> 
        <modified>2012-05-15T21:27:51+09:00</modified> 
        <created>2012-05-15T21:25:00+09:00</created> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
1982年(株)未来社発行で、著者は1930年生れ、東京水産大学卒、銚子水族館，千葉県水産試験場などに勤めた魚類学の専門家。30年も前の本だ。50種ほどの魚について紹介している。その中から面白そうな話題を拾ってみよう。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
めでたい魚として知られるタイには、いやしい魚とされた時代があったそうだ。古くアカメと日本書紀では呼ばれていて、赤い奴の意味で、それは山幸彦が、兄の海幸彦の大事な釣り針を取られ、その犯人がアカメだという。つまり山幸彦に対して無礼を働いたけしからん魚だから、いやしい魚としたそうだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
金色の目をした深海の貴婦人キンメダイは、鮮やかな紅色に着飾った気品のある魚で、深海に棲息し、大きな金色の目が素晴らしい。受け口であることも可愛い。この仲間の先祖は、1億年も前から棲息している古い魚なのだという。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
土用の丑の日にはウナギを食べるべしと言ったのは平賀源内と思っていたが、実は、太田なにがしという洒落本の作家が、土用の丑の日に食べると夏痩せしないということを言って、それを平賀源内が看板に書いただけのことだそうだ。夏バテにウナギが効果あることは、すでに、万葉集で大伴家持が、石麻呂さんに、夏痩せによしというものぞ、うなぎとりめせ。と書いているそうだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;

        </content>
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        <title>本棚整理１６３（「寺田寅彦全集１３巻」）</title>
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        <issued>2012-05-15T06:28:01+09:00</issued> 
        <modified>2012-05-15T06:27:55+09:00</modified> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
明治２５年から大正８年までの日記で、寅彦が小学校の時から熊本の第五高校、そして、東京帝国大学に入り、卒業後の海外留学などを含めて、飛び飛びではあるが、その間の日記が収録されている。前段には、生い立ちの記が書かれてる。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
明治３３年８月２６日の日記には、「漱石師きたり、共に子規庵を訪う。谷中の森にひぐらし鳴いて踏切の番人寝ぼけ顔なり」とある。寅彦２２歳の時で、以降夏目漱石との交流が頻繁の様子を日記には記録されている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
明治３６年５月２２日の日記には、「一高生徒　藤村操　華厳の滝に投じて死す」とある。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
明治３８年１月４日には、「夏目先生と本所へ散歩。自動電話にて虚子君の存否を聞き合わせ、電車にて訪問」とある。寅彦２７歳の時。また、同年８月２９日には「地震学教室より、イタリア語の地震に関する書籍を借りきる」とある。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
明治３９年１月１０日の日記には、こんな俳句が書かれている。２７歳の時だ。&lt;br/&gt;
「炬燵（こたつ）して　鏡に対す　夫婦かな」&lt;br/&gt;
「むつまじき　顔をならべて　炬燵かな」&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
海外留学への船旅の日記など、今とは大違いで、大変面白いが飛ばして、大正７年１月２４日の高橋君の結婚に寄せての俳句には、また「炬燵」が登場しているのが面白い。&lt;br/&gt;
「可ならずや　炬燵して聞く　竹の雪」&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
そして、同年１月２５日の日記には、立入君の結婚を祝してとして、&lt;br/&gt;
「君と在らば　凩（こがらし）の世も　おもしろや」&lt;br/&gt;
とあった。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
こんな自由人が、悠々自適に学問をし、俳句を作り、散歩をし、時にヴァイオリを嗜んでいる様子を、日記を通して、眺めると、厳しい時代の中にあって、時代の裏側に日本人の生き生きした生き方を見る思いであった。
        </content>
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    <entry>
        <title>本棚整理１６２（「寺田寅彦全集１０巻」）</title>
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        <issued>2012-05-14T06:24:21+09:00</issued> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
寅彦が最後の年（昭和１０年）に書いた随筆をまとめたもので、特に、震災関係の随筆が注目したところだ。関東大震災の丁度１週間前の８月２６日の日記として、&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
「月蝕雨で見えず。夕方、珍しい電光が、西から天頂へかけての空に見えた。ちょうど紙テープを投げるように西から東へ延びていくのであった。一同で見物する。この年になるまでこんな「お光」を見たことがないと母上が言う」&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
９月１日の日記には、次のような子供のころから何度も聞かされてきたという母上の話が追加されていた。&lt;br/&gt;
土佐の安政の地震では、丁度、船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるようであったそうだが、今回の地震は、まさに、その形容が適切であることを感じた。と。私も、今回の東日本の大地震では、まったく同じような感じで、通常の地震とは違うものを感じたところだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
地震の後、家に帰ってからの話として、居間の唐紙がすっかり倒れ、猫は驚いて庭に飛び出したが、我が家の人々は、飛び出さず無事であったのは、平生幾度となく、家族に言い含めてあったことが、効果があったのだという気がした。と書いている。地震では外に逃げ出すなということなのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
話は飛ぶのだが、「日本人の自然観」というかなり長文の随筆があり、その最後に、日本の自然とその上で営まれてきた日本人の日常生活、そして日本人の精神生活は、島国であることに加えて、台風や地震による影響のことなどを含めて考えると、「人と自然とを合わして一つの有機体とする見方からすれば、シナ人と日本人とは、決して、あまり近い人種ではないような気がする」と書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;

        </content>
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        <title>本棚整理１６１（「寺田虎彦全集１４巻」）</title>
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        <issued>2012-05-13T06:41:32+09:00</issued> 
        <modified>2012-05-13T06:41:31+09:00</modified> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
昭和３６年岩波書店から発行されたもので、５０年も前の懐かしい本だ。大学の恩師の海洋学者で俳人でもあった宇田道隆先生が、寺田虎彦の門下生ということで、卒論の指導の折など、よく話を伺ったことがある。そんなことで、購入したのだと思う。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
この１４巻は、大正９年から昭和１０年までの日記が収録されている。そのうち関東大震災のあった大正１２年９月１日とその後の記録を拾ってみよう。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
丁度その日の朝は、「時化模様で、時々暴風が襲ってきた」と書いている。上野で「二科会展覧会」に出かけた帰りに寄った喫茶店で地震にあっている。「なかなか大きいなと思って見ていた。会場の屋根が波のように揺れるのが見えた。・・・しばらくして、また大きいのが来たので、みんなで店を出て、空を見ると、嵐の雲が飛んでいた」と書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
９月２日の日記には、「前日、上野公園で露宿した知人が避難してきて、朝鮮人の放火者が徘徊しているから用心しろ」と注意してまっわていた書いている。そして、「井戸に毒を投入するとか、爆弾を投げ込むらしいとか、さまざまな浮説がはやって、人心が落ち着かない」と記している。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
９月１１日の日記には、「丸の内の各ビルディング一見、東京駅は外見上損害少なし」と書いている。なお、その後、東大の地震教室に出かけ、「自分は数年内に、同地震帯上、その他に強震発生の可能性多かるべき事を述べる」と記し、「地震火災学組織の必要なことを話した」と書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
関東大震災では、地震より、地震に伴う火災の方が被害が大きかったことを物語ったていると思ったところだ。この地震はM７．９で、震源地は相模湾北西部８０Km沖合だったそうだ。東京直下型ではなかったのですね。&lt;br/&gt;

        </content>
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    <entry>
        <title>本棚整理１６０（「お酒の商品知識入門」</title>
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        <issued>2012-05-12T06:49:00+09:00</issued> 
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
昭和６０年法令出版株式会社が発行したもので、東京国税局の関係者による監修だ。どうしてこの本が私の本棚にあるのか、３０年近く前の話で、思い出せない。市販本で、主に酒販売店向けのテキストだと書いてある。最近は、日本酒やウイスキーは飲むことが無くなり、焼酎一辺倒で、しかもイモ焼酎が好みで、それに梅酒を少々というところだ。そんなわけで、焼酎についての話から若干興味ある点を記しておく。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
焼酎は、ウイスキーと同様に蒸留酒で、その名前は、「サケを焼く」というのが語源で、そもそもはサケを熱して作ったものというから、おそらく北の方で生まれた言葉かと思うのだが、日本に初めて登場したのは、１５世紀中頃の沖縄だそうだ。中国から東南アジアを経由して入ってきたのだろうという。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
その後、１６世紀初めに鹿児島へ、更に宮崎、熊本へと伝わり、九州・沖縄は「焼酎文化圏」となったのだそうだ。恐らくその前は、日本酒を飲んでいたのでしょうね。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
日本酒は、稲作の始まった弥生時代から日本人は好んで飲んでいたようで、日本を書いた歴史書としては最も古い「魏志倭人伝」では、日本人は酒を好み、喪に際しては、人が集まって酒を飲む習慣があると記しているそうだ。古事記や日本書記の神話の話にはお酒の話が幾つも出てくるとか。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
奈良時代、酒造りは、神事の一環で、主に朝廷や神社で行われていたのだそうだが、室町時代になって、民間の専業者が商品として、本格的に酒造りを始めるようになったとか。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
思い出すと、戦後は学生時代まで、酒といえば日本酒であったのが、昭和３０年代の中頃からウイウキーを飲むようになったようだ。４０年代の海外主張では外国産の高級ウイスキーが貴重なお土産であった。焼酎を飲むようになったのは５０年代の初めに長崎の赴任した頃からではなかったかと思う。振り返ってみると、日本酒は、新潟、宮城のものが好みであったし、今は鹿児島、宮崎の焼酎を好んで購入している。なぜでしょうかね。
        </content>
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        <title>本棚整理１５９（「熊野太地浦捕鯨乃話」太地五郎作著）</title>
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        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <content type="html"> 
昭和５７年、今から３０年前に多分、現地太地にあるクジラ博物館で購入したのだと思う。古式捕鯨の鯨組でのクジラ発見から捕獲までの操業の話やクジラの解体、その利用方法など詳しく紹介された本で、もともとは、著者が、昭和の初めに、鯨組で活躍していたお父さんから聞いた話などを整理したものの再販されたものだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
発売元は、和歌山市の宮井平安堂、発行者は、和歌山市の橋本忠徳さん。あとがきで、発行者の娘さんが「亡き父（橋本鯨浦という名前だそうだが）が出版していた本が久しく絶版となっていたので、若干の資料を補完して再販した」と記している。大変貴重な資料で、鯨関係の図書では、必ず引用される文献で、整理するのは忍びないのだが。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
日本の捕鯨は、太地で生まれ、当初は手銛によるものであったが、網捕り漁法を考案し、この操業方法は、土佐から、長門、九州五島へと伝えられ、広がり、熊野太地浦の捕鯨は、天下に鳴り響いたそうだ。井原西鶴の「日本永代蔵」にも描かれているという。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
江戸時代を通じて浜を賑わせ、繁栄してきた太地捕鯨の功により、紀州徳川家から、太地の姓を与えられたものの、明治に入り、親子ずれのセミクジラを深追いしたことから、遭難の悲劇に会い、壊滅したのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
この話は、小説にもなっているのだが、明治１１年、不漁続きの年の瀬も迫って来た時に、大きな親子ずれのセミクジラが、浜に近づいてきたのだが、普通であれば、逃がすところを、天の与えたお恵みだと、強行したことから、不運が続き、大遭難となり、７，８０名が帰らぬ人となり、この地の捕鯨は消滅したのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
その後、明治の終わり頃、洋式の捕鯨が導入され、今までは捕獲が困難であったナガスクジラの捕獲も、この地で初めて可能となり、近代捕鯨が始まり、多くの太地の鯨捕りの末裔が、南極海までも出かけることになったのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
昭和天皇が、一度、クジラの話を聞きたいということから、水産庁長官が１時間ほどお話をすることとなり、クジラ博士にご足労願ったりして、その準備をしたことを思い出す。今は昔のお話だが、皇室も、クジラには結構関心があったという歴史もあるようだ。&lt;br/&gt;

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        <title>本棚整理158（「ウエイスト　テクノロジー」藤井勲著）</title>
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        <issued>2012-05-10T11:01:37+09:00</issued> 
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        <content type="html"> 
1997年日刊工業新聞社が発行したもので、著者は、1936年生まれ、山口大学工学部卒、新日鉄を定年退職後、環境コンサルタントとして活躍。廃棄物処理から、環境創造へ向けての新しい21世紀型のコンセプトを提案している。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
つまり、ごみ、廃棄物をコストを掛けて処理するのではなく、環境創造のための資源活用を目的としているのが、ウエイスト　テクノロギーなのである。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
例えば、フィンランドで開発された古紙より断熱材を製造する機械で、グラスウールの代替品としても注目されているという。15年も前の話なのだが。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
食品工場などからの有機性汚泥の再生資源化では、有機農業に使われる有機肥料としての利用が注目されている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
そのほかに、廃プラスッチクの溶解減溶化とその再生資源化などにも触れられていて、私が、産官学の技術開発により海洋開発を進めることを目的とした団体で仕事をしていたことがあり、そんな時に、プラスッチク漁船（ＦＲＰ漁船）の不法廃棄とその処分が問題となり、その解決のための事業をしたり、石炭火力発電から発生するフライアッシュ（石炭灰）を材料に漁礁を作る事業などをしたことがあり、その際の参考のために購入したのだと思う。技術進歩、時代の変化が激しいので、今は昔の本だと思うが、懐かしく思い出される。
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        <title>本棚整理１５７（「司馬遼太郎と藤沢周平」佐高信著）</title>
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        <issued>2012-05-09T06:49:37+09:00</issued> 
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        <content type="html"> 
１９９９年光文社からの発行で、著者は１９４５年生まれ、慶応大学卒の評論家、山形県酒田市出身で藤沢とは同郷。アンチ司馬のために藤沢を引っ張り出したともいえる本だ。司馬は商人であり、藤沢は農民であるとして、商人に対抗するためには、寡黙に働く農民のエネルギーを持ってこなけれならないのだ。と記している。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
作家吉村昭が司馬遼太郎賞の受賞を断ったことを引用して、この本が素材となって、さらに司馬遼太郎論が活発に展開されることを期待すると書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
両者の違いは、「上からの視点」と「市井に生まれた」視点との違いで、そもそも司馬は、悪人を書かない「人間の浅さ」があると指摘している。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
また、「女の眼」を書かなかった司馬を批判し、「名もないものを描く」のか「名のあるものを描くのか」との立場から、藤沢を支持しているのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
そもそも、司馬には、英雄史観的な危険な側面があると指摘し、そのことが、愚かなエスタブリッシュメントを安心させているのが問題だと書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
一方、藤沢については、同郷の歌人斉藤茂吉の戦争責任を厳しく追及しているが、同郷の石原莞爾については、甘くなっていると批判している。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
最後には、石川好、色川大吉との対談を載せているが、こうした批判が司馬にはあることを確認したところだ。いずれにしても、歴史小説というものは、どのように歴史を担ったかという観点のもので、その時、一般の人々がどのように暮らし、また、苦労したかの話は、裏表の話のように思うのだが。表があって、裏があるのでしょうね。裏があるから、表が生まれるというのも、やや錯綜、転倒しているように思いますが、そんな観点も、当然あるのでしょうし、共感をお覚えるものが、藤沢作品には、ありますね。私も読んでいます。
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        <title>「薄葬」とは</title>
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        <issued>2012-05-08T11:53:15+09:00</issued> 
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        <content type="html"> 
こういう言葉があることを始めて知りました。天皇、皇后が自分達の葬儀や陵について「できるだけ簡素に」という意向だそうで、火葬になさることなど異和感はないのだが、経費の節減のための葬儀の簡素化には、違和感を感じる。   &lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
昭和天皇の見事で、荘厳なご葬儀には、日本の奥深い文化と歴史を感じるものがあり、外国の方を含めて、多くの人々が感銘を受けたことと思う。こうした伝統ある儀式は簡素化してはいけないと思う。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
桓武天皇の皇子の淳和天皇は、それまでの「厚葬」を改めて、「薄葬」を希望され、火葬にされたそうで、散骨までなさっているとか。散骨については、賛成できないのだが。薄葬についてば大いに結構だと思う。古くから、こうした言葉があるのですね。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;

        </content>
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        <title>本棚整理１５６（「ミシシッピー川紀行」猿谷要著）</title>
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        <issued>2012-05-08T06:49:00+09:00</issued> 
        <modified>2012-05-08T07:03:10+09:00</modified> 
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        <content type="html"> 
１９９４年文芸春秋社から発行されたもので、著者は１９２３年生まれ、東大文学部卒の著名な歴史学者。「アメリカ黒人奴隷史」や「西部開拓史」「アメリカ歴史の旅」などの著作がある米国史が専門。この本の最後に、日本人は米国といえば、ハワイやカリフォルニア、それを超えてもニューヨークやワシントンなどに出かけ、肝心の米国の心臓部にあたる地域を、案外わかっていない。ミシシッピー川流域を無視しているのではと。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
アメリカ人らしいアメリカ人は、ミシシッピ川河畔やその広い流域に住む人たちなのだと。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
ミシシッピー川は、アメリカ人を生み、そして育て上げたのであり、先住アメリカ人のインディアンは、この川を「川の父」と呼んでいたが、今では、「アメリカ人の父」と呼んだ方がいい。と著者は言っている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
この川について語る時、マーク・トゥウェインの「トム・ソーヤの冒険」と「ハックスベリー・フィンの冒険」という米国で最も有名な小説を抜きには語れないという。著者も、最も好きな本で、もし米国の小説で一冊選ぶなら、この本からだという。南北戦争直後の１８７０－８０年代のミズリーリ州ハンニバルで書いたもので、この州は、南北アメリカの、自由州と奴隷州の勢力がせめぎ合った土地なのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
白人と黒人の少年が、同じ筏で、何日もミシシッピ川を下って生活していくというこの小説は、当時の社会の枠を超えた話で、ミシシッピ川が、広くアメリカ人の肉体と精神を育てた偉大な母なのだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
２０年前のミシシッピ川氾濫の話も面白い。当時の新聞の見出しに、「ミシシッピ川本来の領域を再確認」として写真を載せ、「もともとの場所をとりか返している。川の水は、こう言っているのだ。これこそ本来の姿なのだ」と。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
そして、アメリカの友人からの話として、こんな話を紹介している。「中西部の穀倉地帯が、泥水で冠水している面積は、フランスの国と同じぐらいなってしまった。大きな被害ですが、幸いパンなどの食料は少しも値上がりしていない」と。つまり、日本と違って、天候で支配されて食料の値段が上下するような国ではないのだという自信ある言葉なのだと。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
初めて、米国横断の飛行機に乗った時、何時間もの間、地上の移りゆく風景を飽きずに眺めたことを思い出すのだが、中国の敦煌に行ったときの砂漠ばかりの風景とは違う、川が交差して水の豊かな土地であったことが印象に残っている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
ミシシッピー川については、その全体の流域管理、特に環境保護と水質問題についての取り組みについて関心があり、いろいろ調べたことがあり、これに関連して、この本を購入したのだと思う。下流域では、その点もふれてはいるが、全体としては、立派な米国史の本なのだと思う。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;

        </content>
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        <title>本棚整理１５５－３（「街道をゆく７」司馬遼太郎著）</title>
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        <issued>2012-05-07T07:08:07+09:00</issued> 
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        <content type="html"> 
淡路は、小さい島ながら、海を隔て北の播磨、東の摂津、おなじく和泉、紀伊、更に西の阿波と並んで、同格の「国」であり、これは、全国６６か国に分けられた９世紀初期からであり、その前の、「国造」の時代にさかのぼっても、「国」であったそうだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
更に、さかのぼって３世紀末から４世紀の応神天皇という専制者が出現し、大阪湾沿岸で弥生式農耕を完成させ、そのことから生産力が高まり、人口が増え、そして支配権を広げたのだが、この新しい王朝が定めた「海人部」と「山守部」により、淡路の漁師は王朝の支配下となり、海産物を宮廷に献上することとなり、漁業の民は、農業の民に隷属することになったのだそうだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
面白いのは、さらにさかのぼって、「記紀」の神話の時代でも、淡路は、古代国家誕生の上でも重要な、主流をなしているのだそうで、男女神が、「おのころ島」を生んだのは、淡路島に付属する「沼島」であるともいわれ、古代王朝そのものが、淡路を直轄領としていた大土豪だったと司馬さんは書いている。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
この沼島というのは、淡路島の南東に位置するところの、大阪湾に面する離れ小島で、私は一度、訪ねたことがあり、ここは京都祇園祭では欠かせないというハモ料理に使うハモの名産地で、夏の暑い日に、ここの旅館で、はも料理をごちそうになったことがある。当時でも、漁師は大阪湾を眺めながら、すぐ近くの沿岸での漁をしていたことを思い出す。大きな神社が印象的であった。この神社の前で、毎年、出漁前には、出漁の順番を決める札を引くことが習わしになっていると聞いたこと思い出す。
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        <title>本棚整理155-2「街道をゆく」司馬遼太郎    </title>
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        <issued>2012-05-06T18:03:10+09:00</issued> 
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        <content type="html"> 
司馬さんは、「私は漁村に関心があるのだが、なかでも明石の林崎や淡路島の漁村に強い親しみをもっている。」と書いている．明石海狭の「鹿の瀬」についても、多くの魚はここで産卵し、ここに棲息しているので、「穀倉」なのだと。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
この鹿の瀬を巡って、明石の漁師と淡路の漁師は、江戸時代から明治にかけて、流血騒ぎがあり、結局明治になって、太政官の調停により、漁場は播磨と淡路の共同漁場とすることに落着したのだ．&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
そこで思い出すのは、淡路の親類の家は、最も北の北淡町の山の上で農業をやっているのだが、その家で聞いた話しは、関西空港をつくるための埋め立て用として山を売ったのだが、驚いたことに、沿岸の漁師が、この山は昔から漁場を定める「山だて」に使ってきたの補償せよと押し寄せてきたそうだ。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
今でこそ、淡路と明石は、同じく兵庫県ではあるが、江戸時代には淡路島は、阿波徳島の蜂須賀家の領地で、大藩の勢威をもって、播磨海岸の明石や林崎など浦々を圧倒していたのだ。
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